ジェームス・ピアソンがBon VoyageをE12だとする理由

gripped.com
ukclimbing.com
訳=羽鎌田学

英国のトップ・トラッドクライマー、ジェームス・ピアソンが、彼がフランスで初登した大胆なルートに未だつけられたことのないグレードを与えた理由を徹底的に説明する。

2023年2月、ジェームス・ピアソンはフランス、アノの岩場で長期にわたるトラッド・プロジェクトを初登し、Bon Voyageと名付けた。彼は当初、ルートのグレーディングに消極的で、最終的に彼自身が具体的なグレードを口にする前に、クライミング・コミュニティの仲間からコンセンサスを得ることを望んでいた。ただ、彼は、Bon Voyageが彼にとってこれまでで最も困難なルートであることは確信していた。

ジェームス・ピアソンの初登後の数ヵ月間に、ヤーコポ・ラルケル、セバスティアン・ベルト、イグナシオ・ムレーロといったクライマーらがアノを訪れ、それぞれ何度かこのルートにトライした。そして、彼らからのフィードバックを得て、ジェームスはBon VoyageをE12と提言することに自信を持ったようだ。

写真=Raph Fourau

2008年9月下旬、ジェームス・ピアソンはイギリスでThe Walk of Lifeの初登に成功し、当時の最難グレードであったE12 7aとグレーディングしたことは有名だ。しかしながら、翌年、デイブ・マクラウドが第2登し、E9にグレードダウン。すると、ジェームスは、彼の過剰なグレーディングを非難する無数の口先だけのクライマーからの嘲笑の的になってしまった。

世界で最も熟練したクライマーのひとりであるスティーブ・マクルーアは、今年5月下旬にアノを訪れ、Bon Voyageと同じ壁にあるLe Voyage(E10/8b+)を登った際に、Bon Voyageにも目をやり、「もし、このルートがE12でなかったら、それはもう驚きだ。恐ろしい大墜落の可能性は抜きにして、純粋な困難さからして(E12はあるだろう)」と、語った。The Walk of Lifeの一件から15年後、再びジェームスが世界初であるE12とグレーディングしたことは、間違いなくクライミング史の中で最高のカムバック・ストーリーのひとつだろう。

以下は、Bon Voyageに関する彼の弁である。

——————

イギリスのノース・デヴォン海岸でThe Walk of Lifeを初登し、それを公表してから、15年経つ。当時、クライミング雑誌の表紙や複数ページにわたる見開きから、ホット・エイクス・プロダクションズ制作の映画『コミティド-第2部-』の、ルートの美しさと恐ろしさを描いた臨場感溢れるシーンに至るまで、そのニュースはどこにでも転がっているようだった。

私はThe Walk of LifeにE12というそれまでに与えられたことのないグレードをつけることで、直接的にも間接的にも、それがクライミング史上初めて登られた世界最難トラッドルートであることを誰にでも聞こえるようにと叫んでいたのだ。私のことを信じてくれた人もいたし、私自身も自分を信じていたとは思うが、クライミング・コミュニティの中には疑問を抱いた人もたくさんいたし、またそれは当然のことだった。

The Walk of Lifeの初登で、私は英国新世代クライマーのシンボル的な存在となり、クライミング能力だけでなく、勇気と勇敢さでも称賛された。私は、ピーク・ディストリクトにあるグリットストーンのホームグラウンドで、何本かの美しく、かつ困難なルートの再登と初登を達成し、これらの短くて非常にテクニカルなルートについて自分はある程度スペシャリストであると考えていたが、次のような事実には気づいていなかった。私は他のほとんどすべてのスタイルのクライミングではまったく経験がなかったのだ。

イギリスのトラッドクライミングは、ボルトレス・アプローチの倫理的な純粋さを筆頭に、代表的な岩場でよく見られるサンドバッグ的な特質に至るまで、それ自体非常に高い基準に保たれている。私がThe Walk of Lifeを初登した数ヵ月後、デイブ・マクラウドがそれを再登し、そのルートはE12よりもE9に近いと感じたと説明した時、私は誰よりもショックを受けた。そして、私がE12と定めたことがもたらした影響は、私の人生の流れを永遠に変えることになった。

それから15年後、私は全く違う人間になっていた。今では、私は夫であり、父であり、世界中で何百本ものハードなルートを登ったクライマーである。しかし、それでもどういうわけか、一塊の岩を話題にし、みんなの賛同を求めている、あの当時と同じ少年のままでもある。

今年の初め、私はBon Voyageと名付けたルートを登った。手がかりも足がかりも何もないような壁を登る美しいルートで、ユニークなシークエンスと度肝を抜くホールドが特徴だ。Bon Voyage完登は、長年にわたる努力と探求の結果であり、Bon Voyageは私が今まで登ってきたルートの中で真に最難の一本であると感じている。

ルートの難しさについては、メディアではいろいろ言われているが、私が直接語ったことはほとんどない。かつて、The Walk of Lifeを登り、それが自分が登ったルートの中で最難だったと言った時、もちろん私は本気でそれを口にした。しかしその一件は、今でも私の人生で最もつらく、最も悲惨な経験のひとつになってしまった。当時の私は自分のエゴに囚われすぎて、「MY」と「THE」の概念を区別することができていなかったのだ。

これを説明するために、2008年にみんなと一緒にタイムスリップしてみようと思う。

今となっては恥ずかしいことなのだが、当時は自分が何か、ちょっとした不思議な力を持っているのではないかと無邪気に考えたのを覚えている。私は子供の頃に多くのスポーツに挑戦した。そして、どんなスポーツでもすぐに上達したのだが、ハードルにぶつかると、すぐに別のスポーツに手を出すタイプだった。ただ、クライミングは違った。

私がクライミングを始めたのは、16歳。これは今日の標準からすると非常に遅いとは思う。でも、クライミングを始めるや否や、すぐに自分の居場所を見つけたように感じたのは事実だ。そして、少なくとも最初の数年間は、自分がどんどん強くなっていくのを感じていた。18歳で、クライミング雑誌の表紙を飾り、初めてのスポンサー契約を結んだ。そして19歳で、V13を登った最年少イギリス人となり、またE10を登った最年少クライマーにもなった。

私は、クライミングがもたらしてくれる自己コントロール感と自由が大好きだったが、人から注目され褒められることも好きだった。そして、心からそう思っていたのか、ただ親切でそう口にしていただけなのかはわからないが、私に次のように言ってくれていた親しい友人や家族のグループに囲まれていた。私はクライミング界に対する天からの贈り物だ、と。

当時、クライミング・メディアの大部分を支配しているのは少数の人間であり、彼らに気に入られている限り、概してとても幸せな立場にいることができていた。もちろん、私のことを、そして私をテーマにした特大ロゴや雑誌の独占記事などを嫌う人々が明らかにいた一方で、私はそのような人たちと直接関わることもなかった。彼らは、私の世界の一部ではなかったのだ。

2008年は、Instagramをはじめ、今日私たちにお馴染みのソーシャルメディアがまったく存在しなかった時代だ。私は最近はソーシャルメディアが嫌いだし、それは必要以上に多くのネガティブな要素を世界にもたらしていると考えるが、ネット上で見知らぬ人に日常的に非難されることにも、ひとつの良い面がある。それは、世界は様々な視点で満ち溢れていることに気づかされることだ。2023年になってもまだまだエコーチェンバー現象(注①)は観察されるが、最近のそれには、2008年に私が閉じこもっていた反響室ほどの防音性はなく、外の音も耳に入ってくる。

当時はまた、大衆文化においても、社会的に受け入れられているルールが今とは大きく異なっていた時代だ。私たちは過ぎ去った数十年を懐かしく振り返ることがよくあるが、2000年からの10年間は公の場で人を辱めたり、当惑させたり、操ったりすることが公然と許された時代だった。アメリカやイギリスの人気リアリティ番組がいい例だ。『ザ・ビゲスト・ルーザー』とか『ザ・モーメント・オブ・トゥルース』、また『ゼアズ・サムシング』とかいったテレビ番組を覚えているだろうか?もし私があと10年遅く生まれていたら、同じ間違いをおかしていただろうか?たとえそうであっても、あの時と同じように扱われていただろうか?それはわからない。

私は同情や許しを求めてこのようなことを言っているわけではない。ここにたどり着くまでには時間がかかったが、今日、私は自分自身とThe Walk of Lifeを誇りに思っている。そして、火傷を負ったことで、その時はどんなに辛かったとしても、物事をより明確に見ることができるようになった。そして、涙をたくさん流し、意気消沈した後、私は、「MY」の最難は文字通り私だけに当てはまることであり、自動的に「THE」、他の人々に当てはまらないという啓示を得たのだ。

いずれにしても当時、一度、欠点も含め、ありのままの自分を受け入れたら、より幸せな将来の計画を立てることができるようになり、自分自身を立て直すためにオーストリアのインスブルックに引っ越した。考えていたことは単純だった。世界最高のスポートクライマーたちと一緒に登り、自分の弱点を鍛えて、ジェームスのバリエーション2になろうと考えていたのだ。

しかし残念ながら、単にそこに行って登っていれば済むというような単純なことではなく、最善を尽くしていたにもかかわらず、最初の6ヵ月間、頑張れば頑張るほどより悪い状態になるような気分で私は過ごしていた。

私のもともと苦手なスポートクライミングに集中することで、得意のボルダリングやトラッドをおろそかにしてしまった。また、私はあまりにもせっかちで、どんなトレーニング方法でもそれが効果を発揮するようになるまで充分な時間をかけることができず、次から次へと新しいトレーニング方法に手を出し、自分自身にますますイライラするようになり、ついにはセックス、ドラッグ、ロックンロールがクライミングに取って代わり、完全に自分を見失ってしまった。

そんな私を2つのものが救ってくれた。パートナーのカロとスポンサーのザ・ノース・フェイスだ。私には多くの欠点があったが、カロ(フランス人女性クライマー、カロリーヌ・シアヴァルディーニ)は伴侶として私の人生の一部になってくれた。実際の物語は長くて、複雑なのだが、要するに、彼女は私に5ムーブこなしただけでパンプしない方法を教えてくれただけでなく、もっと重要なこと、私がもっといい何かに、もっといい人間になることができるということを教えてくれた。

ザ・ノース・フェイスは、当然のことだが、私のクライミング不足と快楽主義にうんざりしていた。しかし、契約期間満了で完全に縁を切るのではなく、私の再起を期待してスポンサー契約を1年延長してくれたのだ。当時、私にとって、これは大きな驚きだった。今ではそれが自分の人生で起こった最高の出来事のひとつだと思っている。

そして2012年には、スポートルートで念願の9a(Esclatamàsters、スペイン、ペルラスの岩場)を登ることができた。その前年の2011年には、イギリスのペンブロークでE10(Muy Caliente)のフラッシングを試みた。残念ながらほとんど最後のムーブで落ちてしまったが、幸運にも危険なパートをすべて通過した後だった。そのトライは、私にとって、3年以上ぶりのハードトラッドへの挑戦だった。適切な条件が整っていればいかに早く上達できるかを試すかなりワイルドなツアーだったが、その時のペンブロークへのツアーは純粋なパフォーマンス以上の意味があったのだ…。

当時、私はフィジカル的な能力に欠けていたので、ますます危険なルートを登るという、非常に恐ろしい道を歩んでいた。ただ身体的な調子に余裕があれば、フィジカル的により困難なルートを登ることも可能で、クライミングが再び楽しく、エキサイティングになっていた。そして、いつも感じていた、ただ単にパンプして落ちてしまうのではないかという恐怖心ではなく、自分が困難を乗り切るために戦えるかどうか知りたいという新しい好奇心の芽生えをはっきりと覚えている。

トラッドへのこの新しいアプローチは、最終的に、2014年に再び私をRhapsody(E11。スコットランド、ランバートン・ロックにあるデイブ・マクラウド初登のルート)へと導くことになった。以前、自分には難しすぎるという事実から目をそらすために批判したルートだ!そのRhapsodyは単なるハードなルートをはるかに超えたものを意味していた。それは私がまだ答えをよくわかっていない問いに対する答えであり、9月下旬のある風の強い朝にそれを登った時、私の人生のあるひとつの章が終わったように感じた。私は私を疑う人々に対して私自身を証明したのだが、最も重要なことは、自分自身に対してだった。

私は再び限界に挑戦したくなった。そして、かつてのようにそれを探し始めた。しかし今度は、最も難しい「THE」ではなく、単に「MINE」を探し出したのだ。

クライミングの分野で、私が頼りにするのはトラッドだ。それは私の夢であり、来る年も来る年も自分自身を向上させるために懸命に努力し続ける原動力でもある。多くの人が同意すると思うが、トラッドは強烈かつ複雑で、精神力が試され、また複雑な計画とその実行が試される。これに匹敵するもの、これほど完璧なものは他にない。

ただし、トラッドは時間がかかり、厄介な場合が多く、フィジカルの限界に挑むようなことはほとんどない。自分が夢を達成するための最高のチャンスをものにしたいのであれば、絶好の機会を待ちながら次のトラッドルートに備えなければならない。そのためには、皮肉なことに、他のスタイルのクライミングに励みながら多くの時間を費やす必要がある。おそらく、それは真実の愛の基礎みたいなものなのだろう。欠点を欠点として受け入れ、その向こうに目をやることが大切なように。

私が昔、グリットストーンで私にとっての最難ルートを何本か登った時、必ずしもトップロープではそれらをノーフォールできれいに登ることはできていなかった。私は、危うくなるたびに現れる魔法のような感覚に頼っていた。それにより、冷静さを保ち、高い集中力を維持できるだけでなく、フィジカル的により強く、より正確になることができたのだ。

今でもこの感覚は残っている。ハードトラッドをリードしている時ほど落ち着く瞬間はなく、もしそのルートが本当に危険であれば、自分がフォールする可能性はほぼゼロであることも、今は確信できる。

イギリスのピーク・ディストリクトにあるHarder Faster(E9)がいい例だ。2020年に私がルートの取付き近くで寝ている2歳の子供を足元にして登ったルートだが、それは2004年に友人のトビー・ベンハム“ラッキー・チャンス”が第2登した時、一緒にいた私がまったく馬鹿げていると判断したルートでもある。しかし、2019年にそれを登ると決めた時、私がなんだかより勇敢に、言いようによってはより愚かになっていたように見えるかもしれないが、実際には、より準備が整い、より忍耐強く、より計算高くなっていたのだ。

その一方で、このようなルートを登るために必要な準備が、私の家庭生活を犠牲にしていることにもなる。Harder Fasterを目標にして取り組んだ2週間、ルート、ムーブ、天気、Harder Fasterに関したありとあらゆるものだけに私は集中し、家族のことは上の空で、家族に対しよそよそしかった。リスクを正当化するために、すべてを完璧にする必要があったのだが、そのために、クライミングから離れても、非常に多くの時間とエネルギーを必要とした。円満な家庭を保とうとする努力が、実は私たちを引き離す原因になっていたということは、ある種の皮肉であった。おそらく、小さな子供がいる今、トラッド用のクライミングシューズを永遠に壁に吊るし、根本的に不当なことを正当化する怪しげな方法を見つけようとするのをやめるべきなのだろうか?

私について多くの人が知らないことのひとつは、大怪我や最悪の事態を招く恐れからくるプレッシャーに対処するのはかなり得意であるにもかかわらず、純粋なパフォーマンスに対するプレッシャーとなると、私自身が私の最大の敵になる可能性があるということだ。単にフォールして「もう一度トライしなくてはならない」と考えるだけでも、私はしばしばプレッシャーに押しつぶされてしまっていた。

私はトラッドでもスポートでも新ルートを開拓初登するプロセスが好きだが、実際のクライミングに限って言えば、それはしばしば私が登り切るのに充分な時間、そのストレスサイクルに耐えるということであった。そして面白いことに、プロジェクトを完登し、終了点のチェーンにクリップしてホッとするや否や、今終わりを迎えたひとつの煉獄が別の煉獄に取って代わられる。実際には、それはもっと酷いものだった。それはグレーディングだ。

私はグレーディングが必ずしも嫌いだったわけではない。私は、厳格な英数字体系を岩の上での人間の経験と結び付けて自分の初登を評価するプロセスをとても楽しんではいたが、The Walk of Lifeは、物事を「間違う」ことがいかに簡単であるか、そしてまた、コミュニティの反応がいかに実際の「間違い」と比例しないかを私に教えてくれた。

本来クライマーの意見や感覚に基づいたグレードに関して、「間違っている」とか「間違い」とかいう言葉を使うのは、お笑い事だ。私たちの感覚がどうして「間違っている」のだろうか?クライミングの感想を正直に伝えただけだったのに、どうして「間違い」をおかしてしまったのだろうか?

The Walk of Lifeにグレードをつけた時と非常によく似たグレーディング・システムを今でも使っていると聞いたら、みんな驚くかもしれない。私が登った他のルートと比較して、完登までに要した時間を考慮するというものだ。信じてもらえないかもしれないが、私は決着済みの話を蒸し返しているわけではない。それを裏付ける経験がある限り、これがルートをグレーディングする確実な方法であると心から信じている。

確かに自己啓発には継続的な努力が必要なのだが、私は特別難しいことに取り組んでいる時に少しでも気を抜くと、過去の自分本位なやり方にすぐ逆戻りしてしまう。しばしば、クライミングは私をより良い人間にしてくれると人には言うが、それは完全に真実というわけでもない。クライミングは私を幸せにしてくれるが、同時に私を怪物にしてしまうこともできる。おそらく私が本当に無私無欲の人間であれば、諦めることを考えるかもしれない。しかし、もし実際にそうしてしまったら、私は間違いなく一緒にいるのが恐ろしい人間になってしまうだろう。人生の他のほとんどのことと同様、バランスを見つけなくてはならない。それは簡単ではないが、私たちにできることは努力することだけだ。

長い間、私はイギリスのクライミング・コミュニティに対して、自分が受けた扱いについて恨みを抱いていた。それはとんでもなく残酷に感じたので、私は彼らとは何の関わりも持ちたくなかった。私はよくイギリスを、かつて自分が愛していたと同時に憎んでいた、よりを戻そうとすればするほどどんどん逃げていってしまう元カノかのように考えていた。自分の感情を整理し、自分の中に心の平安を見つけるのに長い時間が必要だった。

2000年代の最初の10年は現在とは大きく異なる時代で、その後私たちは、寛容さと包括性についてひとつのコミュニティとして考えながら長い道のりを歩んできたが、その道のりはまだまだ先が長いと思う。今は、あの酷いテレビのリアリティ番組の時代に比べれば、人を公に辱めることは少なくなったかもしれないが、それでもプライベートで、特にネットの匿名性の陰に隠れて、まだまだ多くのことが行われている。この件に関して、私が世界を変えることができないのはわかりきっている。ただ、これを読んでいる人が私たちがお互いをどう扱うかについてもう少し考えて、たとえそれを真剣に受け止めていないにしても、私たちの言葉がそれぞれ重大な重みを持ち得ることを理解してくれれば幸いだ。

2018年に最初の子供が生まれ父親になったことは、プロとしてのクライミングの終わりだったかもしれない。しかしながら、その後2人目も生まれたが、カロと私は絶えずカムバックの道を見つけてきた。一度は失った調子を取り戻しただけではなく、長年引きずっていた多くの課題に決着をつけることもできた。

幼い子供たちの世話をしなければならず、以前よりもクライミングの時間が大幅に減ったことで、パフォーマンスを発揮しなければならないというプレッシャーは消え失せたようで、達成できたものはすべて予期せぬ嬉しいボーナスとなった。私は以前はコンディションに最高にうるさい人間だったが、子連れでのクライミングは、自分が好きな時に登るのではなく、登れる時に登ろうとせざるを得なくなった。しかしそれは同時に、私たちが目にする障壁の多くは、実際には私たち自身が作り出したものであることを教えてくれた。

2020年、私にとっての最難のボルダー課題やスポートルートを登ることができた。そして当時世界最難トラッドルートの候補だったイタリア、カダレーゼの岩場にあるヤーコポ・ラルケル初登のTribe(E11)を短期間で完登できたのだが、それは私が何か新しいことを始める用意ができているということを示唆していた。

私は、何年にもわたって探し回ってきた経験から、ハードトラッドのプロジェクトを見つけるのは、言うは易く行うは難しであることを身をもって知っていた。しかし、再び自らの手綱を緩めると、私はまさに自分がいるべき場所に導かれていった。いつでもどこでも好きな時にクライミングツアーに出かけられるという贅沢はなかったが、南フランスのアノで、私が以前初登したラインのすぐ近くに、人目につかないように潜んでいた、後にBon Voyageとなるラインを見つけたのだ。

完登までのプロセス全体が私のクライミング人生の中で最も楽しいものだった。そこでは、最終的な完登にばかり集中してストレスを感じるのではなく、単純に毎日を楽しもうとしていたからだ。季節の移り変わりや子供たちの成長を眺め、規則正しい生活を楽しみながら、私は平安でほとんど瞑想的な日々を過ごしていることに気づいた。天気や指皮、指の調子のことなど気にしなかったと言ったら嘘になるが、フォールするたびに、すぐにその失意から立ち直り、再びその時々を楽しもうとしていた。

私はこのプロジェクトに2年にわたって継続的にトライし、ある日、私がこれまでに登った中で最も困難な、そしておそらくこれからもそうであろうルートを完登することができた。しかし、数週間、私はそれを誰にも言わなかった。それは、自分の考えをひとりで整理する時間が欲しかったからでもあり、また、一度それを公表したらどんな質問が待っているのか分かっていたからでもある。2023年のクライミング・ニュースは、多くの場合、クライマー名、ルート名、グレードの羅列で、非常に簡潔だが、Bon Voyageについては、もっとそうであってもよかった。なぜなら、その背後にあるプロセスこそ、非常に大きな意味を持つからだ。おまけに私は、クライマー人生で初めて、本気でグレードをつけることができないと考えていたからだ。

私はルートのあらゆるパートを分析し、扱いやすいグループに分け、それらを再構築してグレードをつけようとした。これらの具体的な計算も、また私の最初の直感も、すべて同じ数字を示していたが、その数字が私を非常に怖がらせ、それを表明することができなかった。その後9aとされるスポートルートを何本か少ないトライ回数で登れた時、その時期の自分の調子が人生で最高であることに気がついた。また、Bon Voyageのスタイルは私によく合っていたし、それを登るために特別なトレーニングをしたこともわかっていた。それでも、初登がもたらす厄介事や、もしまた「間違い」をおかした場合のイギリスのクライミング・コミュニティの反応も、充分過ぎるほどわかっていた。また「間違い」をおかすべきか!

私は、自分が15年前と同じクライマーではなく、同じ人間でさえないことがわかっている。高い確率でA+B=Cになることもわかっているし、結局のところ、素晴らしい岩を登りながら楽しんだことが唯一本当に重要なことだともわかっている。私はこれらすべてのことがわかっているが、それでも依然過去に悩まされている。

ここに至るまでには長く大変な苦労があったが、The Walk of Life以来、この15年間で学んだことがあるとすれば、それは決して終わることがないということだ。一方、好きなことができる人生がとても素晴らしい贈り物であることもわかっている。だからこそ、そのために戦うことを決してやめるつもりはない。たとえ傷つく可能性があるとしても、勇気を出して、自分の気持ちを外に出さなければならない時が、今やって来たのだ。Bon Voyage、それはE12であるはずだ。

注①:エコーチェンバー現象

おもに音楽の録音に用いられるエコーチェンバー(残響室・反響室)のような閉じた空間‐世界では、そこに集う自分と似たような意見、考えなどを持った人たちのみの間でコミュニケーションが繰り返され、自身の意見や考えのみが増幅、強化されてしまう現象。

※換算表があるわけではないが、E10は5.14a、E11は5.14cと併記されることもある。それに順ずればE12は5.15aということになるのかもしれない。(編集部注)

同一カテゴリの最新ニュース