セルフケアの羅針盤 最終回 呼吸で整える体と心

根本国彰=文 町田早季=イラスト

フリークライミングは結果を求めるスポーツである。フリークライミングにおける結果とは「完登」であり、それは一度も「落ちずに登れた」という事実を追求する。

ボルダーであれルートであれ、マルチピッチクライミングも、ヨセミテなどビッグウォールのクライミングも、この完登の定義によって初めて成立する。極めてシンプルなスポーツだ。

しかしながら、これほど成否のダメージの差が大きいスポーツがほかにあるだろうか。極端な話、ダメージがゼロで完登する場合もあれば、入門ルートとされるような所でも落ちて致命的なダメージを受ける場合がある。

地球の重力があるかぎり、登れば落ちるリスクは、今日クライミングを始めたビギナーにも、高難度を登れるエキスパートクライマーにも、等しくある。

この「登る」と「落ちる」の正反対の性質が、クライミングを複雑でおもしろく追求しがいのあるスポーツにしている。

困難ななかで安全性を保ちながら突破口を開くクライミングパフォーマンスを発揮するには、さまざまな要因が絡んでくる。
ざっと思いつくだけでも、フィジカル(筋力、持久力、コーディネーション能力、柔軟性など)、テクニック(ホールディングスキル、フットワーク、経験、バランス、プロテクション技術など)、ブレイン(観察力、作戦、知識、計画性など)、メンタル(集中力、恐怖感、リラックス、覚醒、モチベーションなど)がある。

天候や健康状態、クライミングに取り組める環境もそうだろう。このようにクライミングに必要なことを考え始めるときりがないが、要は、完登したときはそれらの多くが正しい側にあり、落ちたときには何かしらの要因が足りていなかったのだ。
今回はそれら要因のなかからメンタルの部分を取り上げたい。

「落ちる」ことは本能的な心理として避けようとする。その心理的ストレスが体に及ぼす影響はどのようなものなのか。ジムでも岩場でも、われわれは完登するとき以外の時間を落ちて過ごしている。その積み重なるストレスを軽減するにはどのような方法があるのかを見ていきたい。


ストレスが体に及ぼす影響

人間の体には規則的なリズムがある。1日を周期とする睡眠と覚醒の周期や、4週間を周期とする女性の月経周期、もっと長い1年を周期とする体調の変化もあるかもしれないが、あまり長すぎると人体に内在するリズムなのか環境の影響なのか区別がつかなくなってくる。

人体が作る最もはっきりしたリズムは、心臓の拍動と呼吸の運動である。

心臓の拍動は毎分70回くらいで、呼吸運動は毎分15回くらい。心臓の拍動も呼吸運動も安静時に一定で、運動をすることで回数が増えてくる。

心臓の拍動数は運動によって、最大で毎分200回くらいまで上がる。呼吸運動も、運動をすると回数が増える。心臓と呼吸のリズム周期の由来は異なっていて、心臓の拍動周期は心臓そのものが作っている。

そのため、心臓は体から取り出しても勝手に収縮する性質をもっている。
理科の授業でカエルの心臓を取り出したとき、カエルは動かないのに心臓はご機嫌にまだ動いていたことを覚えているだろうか。人間の心臓も同様なので心臓移植が成り立っている。

このことはつまり、心臓は外部の影響を受けにくいので意識的にコントロールできないということを表わしている。
では、呼吸運動のリズムはどこに由来するのか。結論からいうと、脳の中心部の脳幹にある呼吸中枢によって作り出されている。呼吸中枢は全身からさまざまな感覚情報を取り入れて、このリズムの速さを調整している。

呼吸のリズムに影響を与える刺激としては、血液中のガス成分が最重要である。首の内頸動脈や、心臓から出たての大動脈の壁にある頸動脈小体や大動脈小体というセンサーが血液中の酸素濃度の変化を敏感に感じ取り、呼吸中枢に伝える。

また、延髄には二酸化炭素の濃度を敏感に感じ取るセンサーがある。こういった刺激によって呼吸のリズムは速くなったり遅くなったりする。

また、呼吸運動の筋肉(横隔膜、肋間筋、首や腕の筋肉の一部、腹直筋、内外腹斜筋など)を動かす脊髄神経細胞は、呼吸中枢のほかに大脳からも直接の指令を受けている。

なので、呼吸運動は、われわれが特に意識しなくても規則的に行なわれているが、意志の力によっても、ある程度制御が可能だ。大脳からの意志による指令によって、呼吸を速くしたり遅くしたり、深くしたり浅くしたり、さらにはしばらく止めることもできる。

意志によって制御できるということは、裏を返すと、呼吸運動は心理状態に左右されるということでもある。
このことはストレスが体に及ぼす影響の核心部分だ。

ストレスを受けると体は緊張状態になり、呼吸運動の筋肉も緊張して動きが悪くなり、呼吸が浅くなる。

特に横隔膜と首の筋肉は影響を受けやすい。呼吸が浅くなると肺での酸素と二酸化炭素の換気量が低下し、その状態が続くと全身の細胞は酸欠状態に陥って不具合を起こし始める。

スポーツでは、体を動かす骨格筋の不具合はパフォーマンスの低下に直結する。

治療院においても、肩こりや腰痛といった一般症状はもとより、不定愁訴といわれるような原因がはっきりしない症状でも、患者の呼吸の状態を観察することは、治療計画を立てたり予後を予測したりすることに役立っている。ストレスを抱え込んだ患者の背中や胸郭はガチガチに固まっていることが多い。

ここで確認しておきたいのだが、決してストレスが悪いわけではない。ストレスは外的な要因で一定にそこにあり続けるので、自分でコントロールできるものではなく、コントロールできるのは受け手である自分の体ということである。

クライミングに例えると、ルートやプロブレムは常にそこにあり変わらないが、受け手は変わるということ。
負のストレスという言葉があるが、ストレス自体には負も正もなく、われわれがそれを負と捉えるか正と捉えるかの問題なのだ。

捉え方については個々人の性格や考え方なども関わってくるため対応は千差万別だが、ストレスに反応したときに現われる共通の体の状態である呼吸の改善、横隔膜や首の筋肉を正常化するセルフケア方法はあるので紹介したい。一流のスポーツ選手はストレスも利用して最高のパフォーマンスをするという。それも日頃のケアがあっての結果なのだ。

ストレスにやられないための呼吸の自己鍛錬法

当院の治療で取り入れている碓井流活法(以下、活法)は、起源を戦国時代にまで遡り、戦場での医術として用いられていたため、武術・殺法に対して蘇生術・活法と呼ばれている。

そこには生死に関わる状況でも冷静沈着に振る舞え、それでいて身体能力を低下させないための鍛錬法もあった。それが5つの呼吸法(他動法、自動法、真気吐納法、陰陽の呼吸、1分呼吸)である。

そこで、その5つのうち、文章で説明しやすい「陰陽の呼吸」と「1分呼吸」を紹介しよう。一朝一夕に完璧にやろうとするとかえって体に負担をかけてしまうので、段階を踏むことが大切だ。活法の原則には「無理をしない」ということがある。がんばらないということではなく、理に適わないことを行なわないということ。昨日今日クライミングシューズを履いたような人に初段を登れと言っても無理なのと一緒である。

陰陽の呼吸

活法では横隔膜より上を陽、下を陰とする。どちらか一方の呼吸に偏ると体内の巡りが悪くなり、ちょっとした環境の変化に対応できず不調を起こしやすくなる。

そのため陰陽の還流を整えることは健康的に過ごす上で欠かせない。他の呼吸法の基本にもなる「陰陽の呼吸」をまずは行なってみよう。

やり方

・胸式呼吸5回と腹式呼吸5回のトータル10回の呼吸

・しっかり吐いて、しっかり吸う

・胸式呼吸を5回続けてから、次に腹式呼吸を5回行なう(胸式と複式の順番は、自分が好きなほうからでかまわない)

・どちらか5回行なうのが苦しい場合は、そちらの回数を減らし、楽なほうの回数を増やす(胸式4回、複式6回のように)

・1日1回、1週間続ける

1分呼吸

陰陽の呼吸を1週間行なったら、次に1分呼吸の鍛錬に移る。

やり方

・最初の20秒は息を吸い続ける。次の20秒は息を止め、次の20秒は息を吐き続ける

・いきなり1分呼吸を行なうのは厳しいので、まずはそれぞれ5秒で行なってみるなど、楽にこなせる間隔で試し、余裕をもって徐々に20秒に近づいていく

・胸式、複式にこだわる必要はない

・1分呼吸ができるようになったら、1日1回、1週間続ける

呼吸の鍛錬を行なうときのポイント

1分呼吸では、合間に呼吸を止めることも取り入れるが、その際に不安感を強く覚える人もいるだろう。そういった人は前半の話を思い出してほしい。

もし呼吸運動が大脳からの指令だけで行なわれていたら、呼吸をするのをうっかり忘れて、気づいたときには死んでいた、なんてことになりかねないが、呼吸中枢が働いているのでご安心を。

気をつけるポイントは、繰り返しになるが、無理をしないこと。その日の体調などで呼吸の鍛錬がキツく感じるときもあるかもしれない。そんな日は、1分呼吸では秒数を軽くして体に負担をかけないことである。

また、呼吸の鍛錬法を続けるうちに、姿勢によって行ないやすさが変わることに気づくだろう。

呼吸法を行なう上で最もよい姿勢は正座である。椅子の場合も、背筋を伸ばして姿勢を正すとよい。そして、集中力をもって行なわないとこなせないことにも気づくと思う。呼吸に集中するためには、半眼にし、目線は2〜3m先に落とすと雑念が入ってこなくてよい。

最後のほうは、僧侶やヨガの修行僧が行なっていそうな瞑想に近い話になってきたが、洋の東西を問わず、昔から呼吸は課題にされてきたということだろう。参考までに、今回のテーマは、以前088号で紹介した「胸郭がクライミングに及ぼす影響」も併せて読み返してもらうと理解の助けになると思う。

以上、クライマーのみなさんのすてきなクライミングライフのお役に立てれば幸いです。ご愛読いただき、ありがとうございました。

※当連載は「ROCK&SNOW」090の記事内容を一部編集し、再掲載しています

 

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