野口啓代インタビュー 20年間の競技人生と これからを語る Part.2

聞き手=植田幹也 写真=小澤信太

小学6年生で2001年の全日本ユースで優勝して以来、実に20年以上も、日本のみならず世界のクライミングシーンを牽引し続けてきた野口啓代さん。これまでの競技人生を振り返っていただき、これからクライミングにどのように関わり活動していくのかを聞きました。※当記事は「ROCK&SNOW094」の記事を一部編集し、掲載しています

 

いい意味でも悪い意味でも「ターニングポイント」となった大会が記憶に残っている

Q. これまで数多くの国内大会と国際大会に出場されてきましたが、印象に残っている大会をいくつか教えてください

競技生活を始めてから最初に印象に残った大会は、高校1年生のときに初めてシニアの国際大会として出場した2005年の世界選手権ミュンヘン大会です。

まだW杯にも出場したことがないなかでいきなり世界選手権という大きな大会だったので、まず予選通過することが目標でした。

そうしたら、なんとリードでビギナーズラックが起きてギリギリ準決勝7位通過で決勝に進出し、そのまま決勝でも3位で銅メダルを獲得することができました。

Q. いきなり世界選手権で表彰台は世界のクライミング界にも衝撃を与えたと思います。その要因は、単にビギナーズラック以外にあるとすれば何でしょうか

この世界選手権はこれまでとルートのテイストが変わったタイミングだったらしく、下部からボルダーチックで、特に決勝では上位選手が戸惑って失敗してしまったのです。

ただ私はルート傾向など何もわからないので、もう決勝は思い切ってやるしかないと下部から突っ込んで登っていったら結果3位になれました。

準決勝8位通過で、おそらく私同様に大きな大会が初めてだったエミリー・ハリントンも、思い切り登って2位の銀メダルだったので、やはり経験の浅いことがある意味有利に働いた大会だったのだとは思います。

ラッキーな要素があったとはいえ、この大会で表彰台に乗れたことで、「ここから世界でもっと戦っていきたい」と強く感じるようになりました。私の競技人生にとって最初のターニングポイントになった大会ですね。


2013年ワールドカップ、ヴェイル
 

Q. そこから国際大会での大活躍が始まりますが、次に節目となったのはどの大会でしょうか

2008年にモントーバンで開催されたボルダリングW杯です。このときボルダリングW杯で初優勝することができて、当時大学1年生だったのですが大学をやめてプロクライマーとしてやっていく自信を得ることができました

私は普段はどんなことでもかなり考えて迷ってしまう性格で、そもそも大学を決めるときにも半年くらい悩んだ結果、入学することを選んだのです。

ただその後、自分が本当にやりたいことは何なのか、この通学や授業の時間は何の意味があるの
か、とモヤモヤし続けていました。本当にプロに転向してうまくいくかどうかの確証もなかったの
です。

そんななか、この大会で成績を出したことで自分が本当に選びたい方向へ決断することができたので、大きな分岐点だったと感じます。

Q. このときに大学をやめクライミングに懸けたのは、今振り返ると本当にすばらしい決断でしたね。その後も目覚ましい活躍を続けているように見えましたが、順風満帆な競技生活でしたか

2008年以降はとても順調でした。トレーニングしたらしただけ結果もついてきて、W杯でも勝ち続けることができました。

ただ、その後の自分にとって今度は少しマイナスの意味でのターニングポイント、BJCは、直前にノロウイルスに罹ったこともあり練習が思うようにできず、優勝を逃すどころか9位になってしまいました。

またこの年は4度目のW杯年間優勝も獲得することができ、結果は出ていたのですが、練習中に左足の腓骨外側靭帯を損傷してしまい、競技人生で初めて大き なケガをした年でもありました。

それらに加えて、オリンピックのスポーツクラ イミング招致のプレゼンをする大役に任命してい ただいて、プレッシャーを感じていたこともメン タル的に何か影響していたのかもしれません。

いずれにしてもアンラッキーなことが詰まった一年 だったと今振り返ると感じます。

Q. ただ、そこでスポーツクライミングがオリンピックの追加種目にみごと採択されます。ここからクライミング界や、野口さんを取り巻く環境が大きく変わったと思いますが、どのような心境でしたか

その後は、自分の中ではうまくいかないつらいシーズンが続いた印象です。特に2016年にボルダリングW杯で年間4位に沈んでしまったのがショックでした。

それとオリンピックにスポーツク ライミングが採択されたことはうれしかったのですが、3種複合のフォーマットになったことを受け入れるのが難しかったです。

ここからスピードを始めることが負担でしたし、年齢的に若い選手たちに交じってオリンピックをめざすことができるのかと長い間、葛藤が続きました。

Q. オリンピックをめざさない、という選択肢もあり得ましたか

めざさないという気持ちも正直少しはありました。現にスピードはオリンピック種目になってからも、しばらくは練習環境などの問題もあってあまり力を入れていませんでした。

それとW杯で共 に戦ってきた、アンナ・シュテール、メリッサ・ レ・ヌーブ、ジュリアン・ワーム、アレックス・プッチョら年齢も活躍していた時期もある程度近い選手たちが誰もオリンピックをめざしていないことも大きかったです。

自分だけがオリンピックをめざしているという感覚をずっと抱き続けていた気がします。ただそれでも目の前の大会に出続ける内に気がついたらオリンピックに向かって進んでいましたね。

結局のところ、自分の強さに絶対的な自信があれば、本当はオリンピックをめざしたいと堂々と宣言したい自分がいることに気がついたのです。

ケガ、年齢、若手選手の台頭、代表権を獲得できるのかという不安な気持ち、などが自分を弱気にさせていたのだと思います


2019年世界選手権・八王子

Q. そんな気持ちのなか、2019年の世界選手権 八王子大会でみごとコンバインド2位となり代表に内定しました。この大会はご自身の中でどのような位置付けでしょうか

世界選手権は代表権を獲得できたという意味で自分にとって重要な大会ですが、クライミングの内容としても印象に残っています。特にコンバインドのボルダリング決勝の1課題目は、これも私にとって重要なターニングポイントでした。

最初のスピードが7位だったのでボルダリング では最上位に食い込む必要があり、この1課題目は絶対に登らないと、オリンピックの代表権はも らえないと追い込まれた状況でした。

ただそんな 逆境でむしろ集中し切っていたのか、1課題目が 実はとても簡単に感じ、一撃に成功できたんです。

結果的にボルダリングで1位になり、代表内定を手繰り寄せることができました。あの追い込まれた状況、あの瞬間だからこそ発揮できた会心のパフォーマンスだったと思います。

Part3に続く

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