アルパインクライミングの来し方行く末(2)

1999

ギャチュン・カン北壁
アンドレイ・シュトレムフェリとスロベニア登攀界


(左)アンドレイ・シュトレムフェリらが初登し、山野井泰史が第2登。嵐のなか、凄絶な下降を続けて生還を果たしたギャチュン・カン北壁
(右)アンドレイ・シュトレムフェリ

スロベニアのクライマーたちは、旧ユーゴスラビア連邦時代からこの国のアルピニズムを牽引してきた。オーストリア国境から東へ延びるユリアン・アルプスは標高こそ3000mに満たないものの、石灰岩の険しい岩山となっており、多くのアルピニストを輩出した。アドリア海を隔ててイタリアと対峙するという地理的に恵まれた条件も、東欧圏にあって早くから西側との接点をもつことにつながった。

1975年のマカルー南壁初登攀や79年のエベレスト(8848m)西稜ダイレクトなどのビッグクライムは、当時の東欧諸国の例にもれずナショナルチームによる大遠征スタイルで行なわれたが、登攀内容は極めて高いものだった。そんななかから、ローカルチームやプライベートチームによる遠征が徐々に数を増すようになっていった。

アンドレイ・シュトレムフェリという人は、70年代このかた、その両方で活躍し続けているクライマーだ。72年からクライミングを始め、高峰デビューは77年のガッシャブルムⅠ峰(8068m)西稜、その2年後にはエベレスト西稜を登っている。スラヴコ・スヴェティチッチやトマジ・フマル、トモ・チェセンといった異端・異能のソロクライマーも生んだスロベニアだが、シュトレムフェリは終始一貫して、よきアルピニストの道を歩んだ。マルコ・プレゼリとやったカンチェンジュンガ南峰(8476m)やメンルンツェ(7181m)のように個人的野心を燃やすかと思えば、若手を引率する隊長役も快く引き受けるといった具合だ。

99年に行なったギャチュン・カン(7952m)北壁はその両方を兼ね備えた登攀だった。8000mにわずか48m足りないこの巨峰はチョ・オユーとエベレストの間にあって、隠れた実力者といった趣だ。シュトレムフェリが95年にチョ・オユーへ行ったときに発見して心魅かれた壁だが、なかなか許可が得られなかった。また、アプローチの氷河と下部の状況がよくわからない。そこで人数を増やすことにして、ヒマラヤ経験はあるがアルパインスタイルは初めてという若手を加えた8人のチームを編成した。BCは5500mだったから壁の標高差は2500m近い。四光峰周辺で入念な順応行動を消化してから北壁に向かったものの、シュトレムフェリら4人はABCで炊事中、一酸化炭素中毒にやられて一時下山。残る4人のうち2人が10月31日初登攀に成功した。回復したシュトレムフェリらもBCを出てこれを追いかけ、翌日、頂上に立つことができた。

それから3年後、この北壁に挑んだのが山野井夫妻だった。シュトレムフェリが2001年に来日した際に示唆していた「もうひとつの壁」北東壁を狙ったものだが、偵察した結果、アルパインスタイル向きではないとわかって北壁再登を目指す。ところが、泰史が単身頂上に立った帰途、嵐に見舞われ、7500mのビバーク地で待っていた妙子と合流してからの下降は凄絶なサバイバル戦となった。強風・寒気・雪崩をかいくぐって生還を果たした夫妻だったが、凍傷で手足の指を失う大きな代償なしには済まなかった。その顛末は沢木耕太郎の『凍』と山野井自身による『垂直の記憶』に生々しく語られている。

シュトレムフェリはギャチュン・カンのあともヒマラヤに通い、ジョンサンピーク南峰(7035m、00年)ザニエピーク(6820m、05年)ジャナクチュリ(7044m、06年)など、カンチェンジュンガ周辺で登攀を行なっている。また、今年は、ピオレドールの審査委員長を務めた。

2000-2001

シヴリン北稜とバインターブラック南稜
フーバー兄弟の世界デビュー

トーマスとレクサンダーのフーバー兄弟は、もっぱら地元ババリアやチロルの岩と氷を登ってきたが、1995年と96年にそれぞれ別のパートナーとエル・キャピタンのサラテ壁をフリーで登り、国際舞台へとデビューを果たした。97年にはカラコルムのラトックⅡ峰(7108m)西壁の初登攀に成功した(5.11a、A3)。翌年にはエル・キャピタンでエル・ニーニョ(5.13b)とフリーライダー(5.12d)を登り、フリー、ビッグウォール、アルパインの各分野で卓越した実力を発揮して、一躍その名を知られることになった。

2000年、兄トーマスはガルワールのシヴリン(6543m)北稜からヘッドウォールをダイレクトに登るシヴァのライン(5.10、A4)を完登、その年度のピオレドールを受賞した。しかし、このとき弟のアレクサンダーは扁桃腺炎のためアタックを降り、トーマスが、現地に居合わせたスイス人イヴァン・ヴォルフと完登したものだった。

トーマスは翌年、再びスイス人たちとバインターブラック(7285m)南ピラーを登る。このルートから登頂したのは初めてのことで、頂上そのものも77年のボニントン=スコットペア以来24年ぶりの第2登だった。この課題は、しかし、前年に兄弟で挑んで敗退していたもの。弟は2年続けて大魚を逸した格好だった。

一方この年、アレクサンダーはビッグウォールのフリーに専心、チマ・オヴェストのベッラビスタ(5.14b)やエル・キャピタンのエル・コラソン(5.13b)をレッドポイントしている。兄は辺境の壁、弟はフリーおよびソロと志向する方向の違いを垣間見せたとはいえ、その後もおりにふれては兄弟そろってビッグクライムを成し遂げている。エル・キャピタンのゴールデンゲート(00年)、ゾディアック・フリー(03年)、ノーズのスピード登攀(07年)などである。

その白眉ともいえるのが、昨年トランゴのネームレスタワー(6239m)で行なったイターナルフレームの完全フリー化だ。20年前にヴォルフガング・ギュリッヒとクルト・アルベルトが行なったクライミングは、6000mの高みで5.12cをレッドポイントするという時代を超えたものだったが、4つのピッチにエイド部分を残していた。

2000年代を迎えて、腕に覚えのあるクライマーの相次ぐ挑戦により、初登時のエイド部分は残り2ピッチまで減っていたものの、台座から2ピッチ目の振り子トラバースと10ピッチ目のボルトラダーがフーバー兄弟の挑戦を待っていた。09年8月11日から14日、夏を支配していた悪天候も去りかけたころ、ふたりは懸案の2ピッチを含む全ピッチをレッドポイントすることができた。台座上に設けたハイキャンプからの標高差650m、5.13a、伝説のルートは42歳と40歳の兄弟の手に落ちた。


トーマス・フーバーとイヴァン・ヴォルフはシブリン北稜のダイレクトフィニッシュ「シヴァのライン」を完登する