アルパインクライミングの来し方行く末(4)

2005

ナンガ・パルバット南壁
スティーブ・ハウスのライト&ファスト

ロシア隊の力攻めの対極にあるのが軽量・速攻のアルパインスタイルであることは、先刻ご承知だろう。スティーブ・ハウスは、アラスカやユーコンで早くからそれを実践し、「ライト&ファスト」と称していた。それもビバークを繰り返すのではなく、短い休憩を挟んで小まめにエネルギー補給を行なうことで30時間、ときには50時間以上も連続行動する方式だ。もちろん、単なるスピード狙いではなく、長大なルートを条件のいいときに一気に登って安全地帯まで下りてしまおうと編み出した方法なのだ。白夜という、この地方特有の条件も味方につけて。


「2000年代のベストクライミング」との評価も受けたナンガ・パルバット南壁


米国オレゴン州に育ったハウスは1988年から89年にかけてスロベニアに留学し、ユリアン・アルプスで夏冬のクライミングを体験した。



(左)来日して多くの日本人クライマーに刺激を与えてくれたスティーブ・ハウス(ROCK&SNOW035)
(右) 038号では「ヒマラヤのアルパインクライミング」を特集した

ナンガ・パルバット(90年)にも誘われたが、初めての高所にとまどい、大して高くまで登れなかった。帰国してからテレイ・サガール北東稜(6904m、94年)やガッシャブルムⅣ峰南西稜(7925m、99年)を試みるが、どちらも成功するには至らなかった。ヌプツェ東峰南壁(2002年)では7200mから引き返している。
04年にはK7(6934m)で、標高差2700mの南西壁を41時間でソロ。その足でナンガ・パルバットに向かい、ルパル側の南壁を登るが体調不良に陥り、7500m付近から下山した。
翌年の再挑戦はヴィンス・アンダーソンをパートナーとした。前回の失敗はK7から2週間しか休養期間を設けなかったためだと分析したハウスは条件のいいペルーで登り込み、十分に休んでから取りかかった。作戦は成功して、ふたりは標高差4000mを6日間で登りきり、メスナールートを2日間で下降した。ナンガ・パルバット南壁では南南東側稜がメスナーらによって70年に、南東側稜がククチカらによって85年にそれぞれ登られているが、中央をたどるルートが登られたのはこれが初めてだった。ハウスはこの登攀によって、前年逃したピオレドール賞を手にした。
スロベニアのマルコ・プレゼリは四半世紀にわたってヒマラヤを登り続け、メンルンツェ初登頂(7181m、92年)やギャチュン・カン北壁(99年)など赫々たる戦果を挙げてきた。ハウスとは04年のK7やカナダ、05年のペルーで行を共にしている。ハウスの次なる目標はマカルー西壁。アンダーソンとのコンビにプレゼリが加わり、アルパインクライマーとしては当代最強トリオの挑戦が注目を浴びた。08年秋のことだ。ところが、モンスーン明けが遅れたため順応がうまくいかず、3人の体調にバラつきが出てしまった。結局2組に分かれて攻撃をかけたものの、肝心のヘッドウォールに手をかけることなく敗退せざるを得なかった。

2006

ローツェ南壁冬季挑戦
日本山岳会東海支部の執念とヒマラヤ冬季登攀


(左)「3度目の正直」で冬のローツェ南壁は日本山岳会東海支部によって登攀された
(右)日本山岳会東海支部の2006年の登攀ルート

ローツェ南壁冬季登攀でピオレドール・アジアにノミネートされ、授賞式に出席した田辺治隊長


2006年12月27日の午後、田辺治、山口貴弘、ペンバ・チョルテンはローツェ(8516m)の南壁を登りきって頂上稜線の8475m地点に抜け出した。標高差にしてあと41mだったが、時間的にも体力的にも、頂を往復する余裕はない。田辺が率いる日本山岳会東海支部隊の冬季南壁挑戦はここで幕となった。
ローツェ南壁は、1981年に当時のユーゴスラビア隊が試みて8250mに達してから90年に初登攀されるまでに、幾多の挑戦を撃退してきた。メスナー、ククチカ、ヴィエリツキ、ベジャン、プロフィ、バタール……敗退を喫した人々の名前を挙げていけば、ヒマラヤクライミングを担ったクライマーの大方が含まれている。
日本山岳会東海支部は冬の南壁登攀を目指して3回にわたり隊を派遣してきた。01年に7600m、03年に8250m、そして06年は8475mと迫りながら、ついに頂上を得ることはなかった。しかし、この巨大な壁に3回も(しかも冬)通い続けた執念は特筆されていい。8000m峰の壁で行なわれた冬季登攀といえば、群馬県岳連によるアンナプルナ南壁(87年)とエベレスト南西壁(93年)が思い出される。東海支部隊を3度まで率いた田辺隊長は、93年の登頂者のひとりだったことも記しておく価値がある。
80年2月のエベレスト登頂を契機として花開いたヒマラヤの冬季登攀時代は、その大部分をリードしたポーランド登山界の退潮とともに忘れ去られたようだ。88年のローツェを最後として、8000m峰の冬季初登頂は十数年というもの、途絶えたままだった。冬に挑戦された山がなかったわけではないが、K2もブロードピークもナンガ・パルバットも、一度ならず失敗に終わっていたのだ。そんななか、イタリアのシモーネ・モーロが05年1月にシシャパンマ(8027m)に登り、久々に冬季初登頂の凱歌を挙げた。パートナーはポーランド人ピョトル・モラフスキ。かつての王国にも世代交代が起こり、新たな冬季クライマーが台頭していた。
モーロはブロードピークに2回続けて失敗したあと、09年初頭にマカルーを狙う。エベレストの翌年(81年)から挑戦が始まりながら、28年間に13回も登山隊を退けてきた、ネパールでは唯一残った冬季未踏の頂だった。相棒にはカザフのデニス・ウルブコを誘った。99年にパミールで出会った旧知の仲で、エベレスト(00年)など数回の遠征を共にしてきた。ウルブコ自身は、前年の冬にマカルーを試みて敗退、春を待ってあらためて登り直した経験があった。
条件のいいクーンブ地方で高所順応を済ませたふたりは1月20日、ヘリでバルン氷河に入山、さっそくマカルー・ラ直下の7350mまで往復して準備を整えた。ワンチャンスをとらえて一気に頂上を陥れる作戦だった。それは2月7日に訪れた。順応時に設けた6800mのキャンプで1泊した翌日、一気に7600mまで進出し、3日目に頂上を陥れた。これによって冬季未踏の8000m峰は、パキスタンにあるK2以下5座に絞られることになった。