アルパインクライミングの来し方行く末(3)

2002

四姑娘山北西壁
ミック・ファウラーのクライミングセンス

中国・四川省の四姑娘山(6250m)は解禁されて間もない1981年に同志社大学隊によって、西面から南稜を経て登られた。92年には広島山の会隊が同じく西面の小沟からアプローチして南壁を初登攀した。

いずれも、決して容易とはいえないルートだが、北面にはさらに難しい壁が控えていた。同志社大と同じ年にアメリカ隊(ジャック・タックル、ジム・ドニニら)がセミアルパインスタイルで北西壁を試みたが、寒気と強風で登攀がはかどらず、敗退している。4570mのハイキャンプから11日間ルート工作を進め、6日間で5400mを越えたあたりまで進んだのがせいぜいだった。

56年生まれのミック・ファウラーは、第一線で活動するクライマーには珍しい公務員(税務官)で、遠征登攀は常に休暇の範囲内で済ませるという生活を続けてきた。そんな制約の下でもほぼ毎年、着実に未踏の大物に成功している。スパンティークのゴールデンピラー(87年)、タウツェ北東バットレス(95年)、チャンガバン北壁(97年)、アルワタワー北西壁(99年)などなど、すべてアルパインスタイルで登ったものだ。

彼の目が中国・四川省の山に向いたのは、中村保氏からの情報提供による。四姑娘山北西壁は、アメリカ隊の試登から20年たってもまだ登られていなかった。2002年春、ポール・ラムズデンを相棒にここを訪れたファウラーは、北西壁の右手に走る一条の氷のリボンに着目する。アルパインスタイルで狙うには、またとない獲物だ。こういうラインを見つけ出すところがファウラーのセンスでもあるのだ。6日間にわたった登攀は、立ったままのビバークを含む厳しいもの。下降は、これまた未踏の北稜に採り、2日間で下った。インサイドライン(1500m、ED+)と名づけられたルートは、まだ再登されていない。

その後のファウラーは足しげく中国へ通い、ふたつの未踏峰とひとつの初登攀をものにする。南東チベットのカジャチョ(6447m、05年)をクリス・ワッツと登り、同じくモナムチョ(6264m、07年)をラムズデンと登った。次は四川省のダムヨン(6324m)を目標にしていたが、登山料が高騰したため、あきらめて新疆の雪蓮峰山塊に変更、今年8月から9月にスラマール(5380m)北壁を初登攀した。このとき彼らは、ハン・テングリとの間に連なるチュレボス山塊を偵察、将来の目標の手がかりをつかんできたようだ。

ミック・ファウラーは中国・四川省の四姑娘山北西壁にルートを見いだし、初登攀に成功する

2003

ヌプツェ東峰南東ピラー
ワレリー・ババノフの変身


メルー中央峰、ヌプツェ東峰南東バットレス等、続けて困難な登攀を成功させたワレリー・ババノフ

シベリアはオムスク出身のババノフはロシア人ながら、同国のほかのクライマーとは一線を画する存在だといえる。旧ソ連時代から綿々と続くロシア伝統の大規模遠征隊に加わることなく、早くからシャモニを拠点としてアルプスの北壁登攀で腕を磨き、ガイドを生業とするプロの道を歩んだからだ。2000年にネパールでカンテガ(6779m)北壁を単独で登り、その2年後には、シャークスフィンの異名で知られるインドのメルー中央峰(6310m)を北西壁から初登頂した。さらに03年秋には、1986年にジェフ・ロウが初めて挑戦して以来、多くのクライマーを撃退してきたヌプツェ東峰(7804m)の南東バットレスを、ユーリ・コシェレンコと2人で初登攀してみせた。

メルーとヌプツェの登攀は、いずれもその年度のピオレドール賞に輝いたものの、一部に固定ロープを使ったカプセルスタイルが批判を浴びたことも事実で、固定ロープかアルパインスタイルか、という、登攀界を二分する論争になった。
特に、ヌプツェ南面一帯はその前後に、各国クライマーが純粋なアルパインスタイルでこの「最後の課題」のひとつを攻略しようと躍起になっていた対象だったからだ。また、先に同じルートを申請していたアメリカ人ファブリツィオ・ザングリッリに対して、「春に失敗した自分が再挑戦するので遠慮してほしい」と要求したことも印象を悪くした。とはいっても、このとき彼とコシェレンコが成し遂げた登攀は、ヒマラヤ史上重要な地位を占めるものであったことは否定できない。
この一件のあと04年2月、ババノフはシャモニを引き払ってカナダに移住する。ロッキーズやアラスカを舞台に、北米クライマーと「ライト&ファスト」のクライミングを繰り返すうちに、純粋なアルパインスタイルで登ることの意味を見いだし、わずかに残っていた旧ソ連流アルピニズムの価値観を払拭していった。つまり、手段を選ばず結果を求めるよりも、プロセスを重視するという考え方に変わったのだ。
06年にはチベットへ行き、チョモレンゾ北峰(7195m)に単独で新ルートを拓く。翌年には、セルゲイ・コファノフとジャヌー(7710m)に赴いて西稜を初登攀した。北壁の右手を限るこのリッジは、94年にピエール・リザルドらのフランス隊4人がカプセルスタイルで6900mまで達していたものだが、ババノフらは標高差3000mを8日間で登りきった。次の目標は8000m峰だと宣言したババノフは08年、ヴィクトル・アファナシェフをパートナーに、ブロードピーク(8047m)とガッシャブルムⅠ峰にアルパインスタイルで新ルートを拓いてみせた。

2004

ジャヌーとエベレスト北壁直登
ロシア隊が示した集団の底力


(左)ロシアの「ビッグウォール・プロジェクト」の一環で登られたジャヌー北壁ダイレクト
(右)ロシア隊によって壁のほぼ中央が登られたジャヌー北壁

時代の流れとはいえ、アルパインスタイルでは手が出しにくい対象というものはたしかに存在する。スタイルより結果だという意識は、どんなに批判されようとも、登ったルートが他の追随を許さないほど困難なものであれば許容される、と考えるクライマーは少なくない。
1970年代に隆盛を迎えた巨峰のバリエーション時代に乗り遅れた感のある旧ソ連のクライマーたちにおいて、そういった傾向は顕著だ。なにしろ、彼らがエベレスト南西壁を登ったのは英国隊の成功から7年もたった82年のことだったのだ。89年には日本山岳会隊(84年)がやり残したカンチェンジュンガ4座の全山縦走を成功させ、トモ・チェセンの疑惑のソロがあったローツェ南壁(90年)も登っている。
こうした大遠征を支えてきた国家の支援はソ連邦の解体とともに失われたが、ロシアのクライマーたちは独自に資金調達を図って大きなプロジェクトに邁進する。その代表が、アレクサンドル・オディンツォフの率いる「ビッグウォール・プロジェクト」だった。世界の大岩壁に毎年ロシアルートを拓くという計画は97年に始まり、トロール壁、バギラティ、グレートトランゴと続いたが、2000年もその翌年も、ラトックⅢ峰(6949m)西壁に失敗する。
カラコルムはひとまず置いて、次はジャヌー北壁と決まった。03年秋の挑戦は降雪と雪崩・寒気にさいなまれて7200mで終わったので、翌年は春に時期を移して行なわれた。9人を3つのチームに分けて、ポータレッジでビバークしながら固定ロープを伸ばし、ヘッドウォールをまっすぐ頂上へと抜けるルートが完成した。
同じシーズン、ヴィクトル・コズロフの率いる20人がエベレスト北壁に向かっていた。メンバーは01年にローツェ中央峰(8413m)に初登頂した面々を中心に編成され、ホーンバインクーロワールとグレートクーロワールに挟まれて張り出す岩壁部を直上するラインを攻めたのである。最後は最も急峻な個所を左へ迂回することを余儀なくされたため完全なダイレクトはならなかったが、8000mを超える高所で困難な岩壁登攀を行なった意味は小さくない。最高峰では南西壁のヘッドウォールもまだ登った者はいないのだから。
コズロフとその一行はそれから3年後、K2西壁にもダイレクトルートを拓くことに成功した。ラインは西稜の左、有名な「鎌」クーロワールとの間に位置する岩壁部に採られ、じりじりとルートを延ばしていく持久作戦だった。ジャヌーのメンバーも加えたチームは、この種の登攀でいかんなく実力を発揮し、2カ月半にわたる闘いの末、11人を頂上に送った。